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聖天様が恐れられる本当の理由

聖天様が恐れられる本当の理由

皆さま、こんばんは。

突然ですが、聖天様または歓喜天という仏様をご存知でしょうか。ゾウの顔をした二人組の仏様、といえば分かる方もいらっしゃるかもしれませんね。

仏教の中でも少し特別な存在であるこの方について、本日は語ってみたく存じます。座学からの話ばかりになりますけれども、インド神話や密教に興味のある皆様、よろしくお付き合いくださいませ。

▼目次

(初稿:2017年11月12日、最終更新:2019年6月6日)

 

聖天様とは?

聖天様は、密教で天部の神様として崇敬される方。もともとインドのヒンズー教に登場するゾウの神様なので、日本でもこれに似せた姿で描かれます。

なお、ヒンズー教のゾウの神様と聖天様は、厳密には同一ではありません。ヒンズー教の神様は、ガネーシャという名前で商売繁盛の神様等として扱われており、日本の聖天様と比べると庶民的なイメージで語られます。

これに対して、日本に伝えられた聖天様は、たくさんの現世利益をもたらしてくださる霊験あらたかな存在とされる一方、絶対に失礼をしてはならない怖い神様ともいわれて来ました。

聖天さまを祀るなら命がけでせよ、というくらい厳しい信仰を求められ、一般人はお姿を拝見することも叶わぬ秘仏中の秘仏とされて来たといいます。

 

聖天・歓喜天を祀る寺院の実際

あらためて聖天様の記事を書こうと思ったのは、以前、京都に滞在したおり、思いのほかよく聖天様を祀る寺院を見かけたことにあります。

聖天様は怖いといわれながら、私のお参りしたところでは参拝自由としていることも多く、色々なところをお参りしているうちに、徐々に怖いという印象も薄らいで行きました。

もちろん中には、六波羅蜜寺のように聖天様のお堂があっても、一般人は立ち入り禁止として昔ながらの作法を守っている寺院もありましたが、ほとんどのお寺さんで聖天様が怖いなんて迷信だから気にせずにお参りしてください、と勧めていただいたのです。

以下、参考に一般人の参拝可能な聖天寺のうち、代表的なところを紹介さしあげましょう。

 

聖天・歓喜天を祀るお寺

  • 待乳山聖天 本龍院(東京)
  • 妻沼聖天 歓喜院(埼玉)
  • 生駒聖天 寶山寺(奈良)
  • 西陣聖天 雨宝院(京都)
  • 西明寺(京都。御本尊は釈迦如来ですが、私がお参りした時期は、聖天様の金運お守りが領分されていました。)

どこも特別に怖いということはなく、むしろ上品で華やかな印象の方が強くて、拍子抜けした記憶があります。

一般人は触れるなというほど怖くてデリケートな仏様との噂に対して、実際は誰でもどんどん参拝できるようにお祀りされているんですよね。

お寺の方も大変親切で物腰の和らかいお人柄をされていることが多く、怖さと厳しさが強調される聖天様のイメージって、本当なのかな?と思うきっかけになりました。

聖天様が誤解されているとしら、その理由はなぜか。

文献をあたったのはもちろんですが、私の場合、多少スピリチュアルな話もする人間なので、実際にお寺さんで感じ取った聖天様の様子から申せば、次のような要素もあるのではないかと思いました。

 

聖天様は怖いのではなく「尊い」

聖天様はもともと、抱擁する男女のゾウの神様として描かれます。これは、聖天様が仏教の神様となった背景を見れば分かるように、スタンダードな聖天様は奥様(十一面観音様)と一緒に登場する存在だからです。

でも、仏教の古典的な価値観では妻帯しないことになっているのですから、この点でも個性的な方であると分かりますよね。

聖天様を見ていると、とにかく明るくて華やかでおおらかですが、その理由は常に奥様が寄り添い歓喜の境地にあるからなのかもしれません。

チベット仏教などでは、修行の最終段階で性エネルギーの昇華を学ぶような儀式があると聞いたことがあります。これは理趣経と関係すると思われますが、理由は後で述べましょう。

夫婦の姿で描かれる聖天様は、仏でありながら厳しいだけでなく、自らもかつては欲に動かされる経験をした仏様なのですね。

だから修行中の段階にある人間が欲を持っても、それに対していちいちダメとはいわないように感じます。けれど、捨て去りがたい欲を肯定するのですから、ともすると聖天様を追いかける人間自身は、道を踏み外しかねません。

そのような気軽に扱ってはいけない智慧とエネルギーをもっているの方が、聖天様なのではないかと思います。だからなのか、聖天様のご供養法は伝授の決まりが特別に厳しいともいいます。

ご供養を授かる修行者が十分な心構えを持って臨めるように、聖天様を拝む際はいい加減な気持ちで始めてはならない、余生をこのために費やす覚悟を持て、などと戒めにも似た言い伝えがされるようになったのではないでしょうか。

この戒めがいつしか転化して、聖天様は怖い、というイメージができたのかもしれませんが、もとは誤解であったのでしょう。更に、慎重に扱いなさいと戒めることで、誤解されがちな聖天様そのものを人の目から守る意味もあったのではないかと思います。

 

聖天様は動かし得ぬものを動かす

更にヒンズー教のガネーシャの姿をみると、聖天様を理解するヒントが見えてきます。というのも、インドではガネーシャのようなゾウの姿をした、ビナヤキャという魔物がいると信じられてきたからです。

ビナヤキャは常随魔と訳され、人間が何かしようとすると水を差して、物事がうまく行かないように邪魔するといわれて来ました。聖天様ご自身は、仏教に帰依して善神に変わっているのですが、今でも配下にこのビナヤキャという魔物を従えているのだそうです。

物事がダメになる時は、ダメになる流れが積み重なって、だんだん好ましくない結果が出て来るものです。それは簡単にいえば「不運」のせいといえるでしょう。

だとすればビナヤキャを従える聖天様の力とは、現実をおびやかす不運を制し、ありえぬような幸運の流れを呼ぶこと。つまり、奇跡を叶える力なのかもしれませんね。

実際、インドでは座り込むとテコでも動かないゾウになぞらえて、ガネーシャ神には別格の力があると考えるそうです。仏教の世界にやって来た聖天さまも、あらゆる「上手く行かない」を蹴散らしくださる、頼もしい存在ではないかと私は感じています。

 

聖天様と日本の神様

私のスピリチュアルな感性から申しますと、聖天様の中には、物事を生む力に優れているなあ、と感じさせる方がおられます。京都でお参りした山科聖天様などは、このような印象の強い方でした。

神仏習合の時代には、聖天様の化身が、伊邪那岐尊と伊邪那美命尊の夫婦神であるともいわれたそうです。ご存知のとおり、この夫婦神は日本神話で、国生みをした神様ですね。

世界を生んだ伊邪那岐尊と伊邪那美の夫婦神と同じ存在と考えられていたならば、聖天様にも現実世界に何かを生む力があると信じられてきたのかもしれません。

現実を生むエネルギーがあることが、現世利益を叶えてくれるという、聖天様のイメージにつながった面もあるのではないでしょうか。

場所によって、聖天様の気質が違うと感じることもありますが、山科聖天様の位置する京都の東側から滋賀県の地域では、男女のご先祖様を祀る風習が残っていますよね。

山科聖天さまの近くに鎮座する諸羽神社さまなども、忌部氏のご先祖様を祀ったという説があり、この地域には夫婦(あるいは母子)をペアの神様として祀る習慣があったのではないか、と私は考えています。

そうした土地柄があってなのか、山科聖天さまは私が参拝した中でも比較的穏やかで、夫婦の要素が強い聖天様という印象を受けましたよ。

 

聖天様が恐れられた現実的な理由

スピリチュアルなだけの話で終わらせないため、ここからは現実的に聖天様の姿に迫ってみましょう。

歴史的な事実を確認しますと、空海と最澄が密教を日本に伝えた当時、空海が持ち込んだ経典の中に、「理趣経」(りしゅきょう)というものがあったといいます。理趣経は極秘中の極秘として扱われて来ましたが、その理由は内容がかなり過激だからだそうです。

なんと薬物・肉食・性などの力を利用し、破戒行為によって修行の総仕上げをする、という趣旨のことが書いてあったといいます。

あまりにも誤解されそうな内容なので、空海はこの訓えをむやみに開示してはならないと判断したのか、理趣経の解釈本を貸してほしいという最澄の依頼を断ったといわれ、これが真言宗と天台宗に対立をもたらしたとの説もあるほど。

いきなり理趣経を持ち出したのは、先ほどのチベット仏教の修行の話と関係があるのです。

チベット仏教では今でも代々のダライ・ラマ法王猊下が、理趣経を再現するような儀式を、修行の最終段階で実践すると聞きました。ともすると破戒行為にも見える儀式は、修行の進んだ人間でなければ誤解しかねないため、秘中の秘とされているといいます。

聖天様の場合、ビナヤキャという魔物を卒業し仏教の道に入ったのは、奥様である十一面観音様と結婚したことがきっかけでした。しかもその前は、肉食が大好きなインドの王様だったという話もあります。聖天さま自身、仏教的な固定観念から自由な部分があるのかもしれません。

こうした聖天様の在り方は、理趣経の境地には近いものがありますね。尊い教えが注意深く扱われるように、素人の誤解を避けるべく慎重に扱われてきたのが、聖天さまという御方なのかもしれません。

 

七代の運を一代に集める歓喜天秘法の噂

もうひとつ、聖天様が怖いといわれる理由は、聖天様の修法とも関係あるようです。

聖天様の修法には歓喜天秘法とう、七代の運を一代に集め、集中的に幸運を得るという秘術が存在するんですね。このために、聖天信仰にはどこか西洋の黒魔術的なイメージが生まれたとは考えられないでしょうか。

歓喜天秘法では尊像に油を注いだり(浴油供)、決められたものを用意したり、かなり手の込んだことをしなければならず、素人が真似ようと思ってできるものではありません。そもそも、浴油供については阿闍梨の資格を持った者が行わなければ意味がないとも聞きます。

こう考えますと、私利私欲で歓喜天秘法を実践し成功した人間が過去にいるのか、それ自体に疑問を感じるところですね。また七代の運を集めるといっても、歓喜天秘法を行った結果、子孫が不幸になった話も私は聞いたことはありません。

実際のところは、秘中の秘である聖天様を引き合いに出してまで願望を達成しようという欲に、人間自身が惑わされた結果のような気がします。

 

聖天様が怖いといわれる本当の意味

これまでに巡った聖天さまのお寺での体験から、聖天様を祀るということは薬品の取り扱いと似ているのかもしれない、と私は考えるようになりました。

普通の寺社参拝をサプリメントのようなものだとすると、聖天様は医薬品のようなもの。ゆっくりと体質改善(カルマ解消)などと言わず、具体的で即効性のある結果で、願掛けに答えてくれるのかもしれませんが、その代わり聖天様を扱う人間は有資格者(修行を終えた僧侶)でなければなりません。

リスクや注意点が分かっている人間でなければ扱ってはならない存在だけれど、そもそもそのリスクが生まれるのは、みだりに薬を飲もうとする人間の姿勢にも、原因があるのかもしれない。これが私流の考え方です。

祈ることで結果は出してくださるとしても、もっともっと追いかければ良いのではないから、私たち自身が慎みを知る必要があるのでしょう。

聖天信仰は慎重にせよというのは、自分の欲と適切に付き合える人間が少ないことが、一番の問題なのかもしれないと、いくつかのお寺を参拝した結果、思うようになりました。

 

聖天様とのお付き合いはお寺に任せて

もし、きちんとした作法で聖天様に願掛けをしたいのであれば、自分で自宅に祀るというのはまず無理でしょう。しかるべき師匠のいない人間が手を出す物ではありません。

在家の人間が聖天様に御祈願をしたい場合は、お寺さんに頼むのが一番です。

聖天様をご本尊としている寺院では、「浴油」を行うご縁日があるはずなので、こういう機会にお邪魔してご祈祷をお願いしたり、護摩木などを奉納したりするのがよいと思いますよ。

特別な感謝の気持ちをお示ししたいなら、聖天様には大根をお供えすると良いそうですね。東京の待乳山聖天様のようには、境内で大根が販売されているところもあります。

その他の市販品ですと、京都の銘菓、清浄歓喜団なども聖天様へお供えする揚げ菓子をもとに作られたものですね。清浄歓喜団は祇園の老舗・亀谷清永さんが販売しておられます。

清浄歓喜団の起源は、遣唐使が奈良時代には伝えた揚げ菓子といいます。伝統あるお供えを、感謝の気持ちで用意することも、時には良いかもしれません。

 

聖天様をもっと知りたい方へ

最後に、聖天様に興味のある方にお勧めの書籍を紹介いたします。こちらは、私の大好きな京都西陣の聖天寺、雨宝院さまの寺務所で紹介されていた一冊で、私自身も所有しています。

まるごと一冊、聖天様について書かれており、インドでの歴史、信仰の注意点など、聖天さまを信仰する人間に必要なことがほぼ網羅されていますよ。

せっかくご縁をいただいて、聖天様への御祈願をするのですから、無理のない方法を選び、将来的にも仏縁をつないでいけたら良いですよね。

 

以上、私なりの拙い聖天様の考察でした。

本日も最後までお付き合いいただいた皆さま、ありがとうございました!

カテゴリー: 仏教