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神様のご利益と因果の話

神様のご利益と因果の話

皆様、こんばんは。

ようやく、ブログタイトルに相応しい記事を更新することができました。この数か月の間に、色々なメッセージを寄せてくださった皆様に、改めて御礼申し上げます。

今回のテーマは、神様のご利益と因果の話。神様の力の本質とは何か、という大きな疑問について私なりに感じたことの記録です。よろしくお付き合いくださいませ。

 

▼目次

(初稿:2020年7月18日)

 

神様のご利益とは結局何なのか?

少し前に投稿した、本当に神様のいる土地はどこか?という記事について、実は補足したいなと思うことがあり、また記事を書こうという気持ちになりました。

【過去記事】 本当に神様がいる神社とは?逆効果パワースポットを避ける方法

ちょうど、あの記事を書いている時期の私自身は、神様の存在をありありと感じる境遇におりました。少し時間が経った今、客観的に神様を体験するということについて、お話したいと思ったのです。

実を言えば今回、新天地に飛び出せたことは、神様のおかげ以外にはあり得ないという気持ちと、私みたいな人間に本当に神様がご利益を授けてくださるのだろうか、という気持ち。2つが混ざって、長らく心の整理がつかないでいました。

気持ちの整理ができて来た今、また筆をとったのは、もちろん自分が神様に特別に愛されていると誇示したり、ご利益自慢をしたりするためではありません。

私なりに、神様のご加護とは何か?という問いの答えが垣間見えた気がしたからで、今日はそのお話を申し上げましょう。

 

ご利益とは願い事が叶うことなのか?

日本の色々な聖地を巡っているうちに、気が付いたことがあります。それは、神様と接する時の人間の心持ちが、時代とともにどんどん変わって行ったんだな、ということ。

奈良や京都の霊場と比べると、江戸時代以降の霊場(特に庶民でも参拝できたところ)は、現世利益の御祈願を受けとめ慣れていると感じます。

パワースポットめぐりで運気アップを祈る、今どきの信仰の原点は、もしかして江戸庶民の価値観を受け継いだのかしら・・・なんて気がするくらい、江戸っ子の祈りは現実的だったのかも、と私は思うんですね。

更に時間の経った現代では神様のご利益というと、願ったことがそのまま手に入ることだ、と考える傾向がより強くなっているのかもしれません。

でも、自分の願いが叶うこと=本当に神様のご利益をいただくことか?と問われると、私の答えはちょっと違います。

 

神様の教育方針は自主独立

私の思う神様のご利益とは、人間の手の届かないところでしか働かない不思議なパワー。

天変地異や重篤な病気など、本人の努力・・・つまり人知の及ばぬレベルで問題が起きようとしたとき、初めて手を差し伸べてくださる極わずかな助けではないかと思うようになりました。

ピンチの時の助け舟というと、派手な感じはしないかもしれません。

でも、その助けがあったことで人間は一命を取り止めたり、破産したりするような、深刻な災難を免れることが出来る。

その極わずかな運命を変える手助けがあったとしたら、人間はそれを奇跡と呼ぶのではないでしょうか。

欲望を満たす何かではなくて、奇跡としかいえない幸運こそが、神様のご利益やご守護かもしれない、と思うんですね。

人間が自分でできるところまでは、本人の力に任せるけれど、背伸びしてさえも乗り越えられない難しい問題が出てきたとき、最後の一押しをしてくれる。決して押しつけがましくなく、過保護にもならない。

それが神様の教育方針ではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか。

 

神様が恐い、本当の理由

もうひとつ、神様と共に生きることについて感じたことがあります。

これは前にも何度か扱ったことのあるテーマになりますが、一般に神様や仏様はご利益を授けてくださる一方で、罰を当てる怖い存在ともいわれますよね。

神様や仏様が怖いといわれる、その理由はなぜか?という疑問について、また新たなヒントを得られた気がしているのです。

これまでは単純に、その神様や御眷属など、土地を守りたい気持ちのあるものが不審者を追い出したり、失礼に対してお灸をすえたりした結果、神様から罰が当たったのでは・・・と漠然と考えていました。

実際に、霊場を守っているらしい天狗を見たり、穢れを嫌う龍を見ていると、そう思いたくなったのです。

でも、よく見ているとそれだけでは無いなということもある。なぜなら、真面目で善良で信仰心を持っている人であっても、人生が幸運ばかりということは決してありません。

むしろ、そんな人が苦難に直面していて、神社仏閣に近寄りもしないような横柄な人の方が、世間的には成功していることさえあります。

さらには高徳の僧侶、希代の霊能者といわれるような方であっても、私生活では並々ならぬ困難を経験しておられることも、珍しくはありませんよね。

 

神仏は何のために存在するの?

こういう事実を目にすると、「神様や仏様のご加護なんて本当にあるの?」と疑いたくなる時も、人間ならあるのではないでしょうか。

100パーセントの答えではないかもしれませんが、これについて私なりに見つけた答えは、神仏に近づくと因果が正常に巡りはじめるからではないか、ということでした。

それまでは油切れを起こして、ようやく回転していた運命の歯車が、森羅万象の理に基づいて、また正常に動き出す。

いわば、神仏パワーの一番の効果とは運命を促進することではないか?ということですね。そこには当然、良い物も悪い物もあるでしょう。

良い因果、悪い因果、どちらが巡って来たとしても、本当に大切なのは運命の輪が正常に巡っている時に幸せな人生を歩めるようになることなのではないでしょうか。

そのために善きことの種をまこうと努力することの方が、本当は現世利益を得ることの何倍も、神仏から見れば大切であるのかもしれません。

こう言うと、悪いことをしても大丈夫な人は、つまり神仏から遠く離れているから平気なの?と思う方もおられるでしょうか。それなら、神様や仏様なんて信じない方が得じゃないか、という不満の声が聞こえてきそうですね。

でも、私はこれも違う気がしています。

抽象的な表現になるけれど、命には正常なサイクルを保つためのバランスが必要だと私は思うからです。

日照りが続いた後には雨が降らない、春夏の後には秋冬が来ない、それは自然の理に叶っているとは言いがたいことです。

真夏の晴天にこそ元気に見えるヒマワリのような花でさえ、いつまでも雨が降らなければ枯れてしまうように、物事はめぐるから上手く行くというのが神様のルールのように、私には思えます。

誰かにだけ都合のよい状況がいつまでも続けば、それはもっと大きなサイクル、自然という命の仕組みを壊すことにもなりかねません。

もし自然と生命を司るのが神様の力だとすれば、因果をめぐらせることもまた神様が持つ不思議な力ではないかと思うのです。

 

神様が与えてくれる魂の平穏

時に厳しいともいわれる神仏ですが、神仏を意識した暮らしをしていると、暮らしの中に当たり前の秩序が戻ってくる気がします。

その秩序が私たちにもたらすのは生きることへの安心感で、本当はこれが一番のご利益なのかもしれません。

命の四季を体験することが神様と共に生きることなら、上手くいかないことや辛いことがあるのも、本当はふつうのこと。

神様と生きてさえいれば、人生のすべてが奇跡のように上手く行くという考え方には、私は馴染めませんでした。

でも、神様は失敗を笑ったり責めたりすることは絶対にない、とは思っています。

雨の日も晴れの日も、命にとっては普通のこと。人生の浮き沈みのたびに、自分を恥じる必要はないよ、そう神様はささやいているような気が致します。

 

さて、本当に久しぶりの更新になってしまい、きちんとお返事を返せなかった皆様、申し訳ございませんでした。

ブログの運営方針を悩みましたが、自分としては魂の学びのような崇高なものを目指すのではなく、ほぼ誰も来なかったころの個人ブログに戻せればよいなという気持ちがしています。

つまりは怪しい会社員の独り言ということになりますが、それでも構わない皆様、今後もお付き合いいただければ嬉しいです。

それでは本日も最後までご覧くださった皆様、ありがとうございました!