菜食や断食と霊感の関係
皆様、こんばんは。こちらは加筆修正記事ですが、ほぼ丸ごと書き下ろしの内容となりました。
今回は、神社仏閣のことから少し離れて、素朴な疑問について考察をして参ります。その疑問とは、菜食や断食で霊感が高まるのか?ということ。
これについて、私の思うところを綴ってまいりますよ。よろしくお付き合いくださいませ。
▼目次
- 欧米的スピリチュアルな食習慣
- 菜食をよしとする日本的な理由
- 菜食・断食の科学的な影響
- 食事と霊感に関する個人的な経験談
- 神仏と仲良くなるには○○が重要だった?
- 私の思う断食・菜食の意義
- 神様の好みも色々
(初稿:2017年7月24日、最終更新:2019年9月13日)
欧米的スピリチュアルな食習慣
まず、菜食や断食が霊的に良いことと考えられる理由を見て参りますと、欧米的な発想による説明と、日本的な伝統による説明の2種類があることが分かります。
欧米的な説明によれば、よく挙げられるのは波動の話ですね。
欧米的スピリチュアルな考え方では、肉食をすることで、人間の波動が荒くなるといわれます。波動を上げることで、神様や天使など善なる存在と波長が合いやすくなるのだそうです。
断食についても同様で、胃腸を休ませることで肉体や精神を健康にすると、波動が上がると考えられるのだとか。
霊感が強くなるのとは少し違う話かもしれませんが、神仏を感じやすい体質になる方法として、海外でも菜食や断食を行うことがあるのですね。
菜食をよしとする日本的な理由
【仏教的な価値観と精進】
一方、日本では菜食や断食を、修行や潔斎のときに行う長い伝統があります。
日本の場合、とくに仏教の修行をする人の間では、肉・魚などのいわゆる「生臭もの」を控える伝統がすっかり定着していますよね。
これには肉食を避けることで、無用の殺生を避け、徳を積む意味もあるようです。徳を積み、精進することで、仏としての位をあげて行くことが重要だからでしょう。
仏教的には、霊的に特別な力を持つこと、それ自体を修行の目的とすることはないそうですが、非常に徳の高いお坊さんになると、通力・法力などといって、神仏の加護に後押しされた特別な力を発揮できた、という伝説は残っていますよね。
言い換えるならば、霊性を磨くことが仏教的な精進の目的なのかもしれません。
【神道的な価値観と潔斎】
なお、神道の場においても、いわゆる復古神道に所属する行者さんなどは、肉を初めとした動物性のものを食べない修行をすることもあるそうです。
この理由のひとつは、神道で忌み嫌う血の穢れを避けることもあるのではないでしょうか。
ただし神道の場合、本来は仏教ほど厳密に動物性食品をさけていた訳ではないようです。
例えば、平安時代の伊勢神宮の巫女さんのうち、リーダー的な存在とされていた「斎宮」という役職について、当時の食事の記録などをみると、メニューの中に魚が入っていたりするんですね。
また、歴史的には伊勢より古いという諏訪地域の祭祀では、鹿の頭部をお供えにしていたともいいますから、動物性のものが全面禁止になっていた訳ではないのでしょう。
むしろ、神事のために特別に用意したものを使うことの方が大切だったらしく、魚でも米でも神事のために特別に取り置いたものを、忌み火という神事用の清らかな火で調理することが重要だったといわれておりますよ。
神道的には、殺生の禁止はないけれど、神様とつながるために穢れを避けることがより大切と考えられていた、ということですね。
菜食・断食の科学的な影響
菜食や断食と、霊感などの超感覚の関係を科学的に考えると、身体感覚の鋭敏さと関係がありそうです。
なぜなら、身体が飢餓状態になると、食料を求めようとして人間の本能が覚醒するからです。
すると、食べものを見つけるために、嗅覚、視覚、聴覚などの五感が活発になってくるといわれます。菜食や断食で、肉体的な低栄養状態が続くことで、狩猟本能のようなものが活性化するのでしょう。
霊感や直観のようなスピリチュアルな能力は、時に第六感とも呼ばれるように、肉体的な感覚の更に上を行くもの。
五感が敏感になることで、一緒に第六感も活性化するとは考えられないでしょうか。
菜食や断食にとどまらず、密教、修験道などでは山に籠っての荒行をすることも知られていますよね。
食事のコントロールだけでなく、肉体の弱るような過酷な経験を積むことで、生き残り本能を刺激すること。
それによって霊性と霊的な能力を開こうという意図が、伝統的な修行にはあるのかもしれません。
食事と霊感に関する個人的な経験談
ここから私の個人的な考えになりますが、実は私としては、菜食をすることと霊的能の開発には、直接の関係はないと思っています。
というのは、私が今までお会いして来た見える人のほとんどは、生まれつき見えるケースが多く、修行で能力を開いたとの話は聞きません。
本格的に神仏を祀る人であれば、神仏の力を借りた結果として、必用な時に必要なことだけ分かるようになった、というケースも稀にあるようですが、これは一般的なイメージとは異なるのではないでしょうか。
何でも手に取るように分かり、除霊もできる霊能者のような存在は、そもそも目指すべきではないのでしょう。
私自身は、霊能開発とは別の理由(次で説明しますよ)から、参拝前に肉や魚を控えることはありますが、個人的には分かる・分からないを左右するのは体調の方が大きい気がしています。
病み上がりなどで肉体が弱り気っている時は、神仏・霊・他人の想念など色々なものの存在を、なぜだか拾いやすくなります。
神仏と仲良くなるには○○が重要だった?
もし、断食や菜食が霊的な能力と関係がないとすれば、どうして伝統的な修行の場に、肉や臭いものを食べないなど食事の決まり事があるのでしょうか。
答えをいってしまいますと、菜食や断食を修行に取り入れる理由のひとつは、体臭を弱くすることではないか、と私は思っています。
にんにく料理、カレーのように香辛料の強いもの、獣肉などを食べ過ぎると、吐息に臭いが出てくるだけでなく、たくさん食べれば汗になって出てきて全身の臭いが変わってしまいますよね。
でも実は神仏や霊にとって、匂いは非常に大切なものなんです。
例えば浮遊霊からは生ごみや汚水のような臭いがする一方、神仏が登場する時は花やお香のような良い香りがするといわれますよね。
霊感がある人の中には、故人の存在を匂いで感じる方もいるそうで、もともと愛煙家だった人ならタバコ臭として分かったり、生前に愛用していた香水の香りがしたり、ということもあるそうです。
簡単にいえば、神霊の世界では匂いが相手を判別する要素となる、ということですね。
私の思う断食・菜食の意義
私の実感としても、体臭とは限りなく「気」に近いものだと思っています。実際、お風呂に入るなどして汗をかくと、毛穴が開いて邪気の排泄になるという人もいますよね。
汗や体臭と一緒に、その人の気が噴出しているとすれば、神仏とのお付き合いでは清潔が大事というのも、納得できるのではないでしょうか。
類は友を呼びますから、善いものを呼びたいのであれば、まずは自分自身を、清潔で良い香りのする状態に置く方が良いということです。
例えば、香りのよいお花やお線香を、仏前にお供えしますが、仏教的にはお線香の香りは、仏様の食べ物ともいわれています。
つまり、香りひとつで神仏を喜ばせることもできるんです。逆に言うと、神様や仏様は、臭いところ、不潔な場所には居つかないんですね。
霊的な感覚のある人は経験があるかと思いますが、邪気にあてられたり、霊に憑かれたりすると、口臭や体臭がきつくなることがあります。動物かな?という人は、やはりそれらしい匂いがします。
でも、修行をする人たちの目的は、こういうものより神様や仏様とお付き合いすることにあるはずです。
だから、なるべく神さまに気に入ってもらえるように、自分の身なりを整えましょう、ということが菜食の理由なのではないでしょうか。
見えても見えなくても、せっかくならば良いものと関わりたいですね。
神様の好みも色々
なお、ここまで匂いの話をしてこましたが、もちろん一部には気にしない神仏もいらっしゃるようですよ。
例えば、和泉式部に生理中の参拝を許したという熊野権現や、もとより人の心臓を喰らうというダキニ天さまなどは、他の神仏と比べれば血の匂いを嫌がる方では無いでしょう。
(ただし、夜叉の居るところ血の匂いを持ち込むと、眷属など騒がせてしまうかもしません。)
逆に、龍神様のように不浄が本当に苦手な方のところに行くといは、清潔を第一として正解ではないかというのが私の印象です。
どんな神様とお付き合いしたいのかでも、必要性は変わってくるのかもしれませんが、来てくれるなら善いものであって欲しいですよね。
そういう訳で、菜食・断食・禊によって悪臭を取り除き、よい香りをまとうことは、スピリチュアルなマナーとして大切なのではないでしょうか。
以上、本日もお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。