鹿島神宮のひとりごと「愛し合う喜びの本質」

皆さま、本日もお越しいただき、ありがとうございます。

今日は鹿島神宮に行った時、私が受け取ったチャネリングもどきを記事にします。鹿島神宮を参拝してから時間が経ってしまったのですが、筆が追いつかず文章にまとめられずにいました。

あらかじめ申し上げてしまいますと、実は私自身、神さまの言葉を頂いたと自分でいうのが、すごく嫌なんです。

だから、今回の記事も私の思い込みと思ていただいて構いません。

それでも構わないという方、よろしくお付き合いくださいませ。

鹿島神宮。こちらで手を合わせると、社殿の内部の天井に近いあたりに、白銀色の光が瞬いているのが見えました。

 

こういうチャネリングのような言葉が入ってくる時って、だいたいは神社にお参りした後で、もらった瞬間からパッと目の前が明るくなって、すごくよい気分になるんですね。

だから、これは神さまが心にくすぶる悩みという魔を払ってくれたのかもしれないと思って、当ブログではこれを、神さまの言葉ということにしている、ということです。

今回の言葉が来たのは、鹿島神宮に参拝した後だったこと、鹿島神宮の本殿で少し変わったものを見たのことから、鹿島の神さまから頂いたものとしました。

 

これを受け取った時はちょうど、京都の恋愛のパワースポットはどこか、という記事を書いていた頃。

私は友人と話をするなかで、男女の恋愛や結婚にはどんな意味があるのかという問いに、自分でも答えられずにおりました。

そんな心の引っ掛かりを解消してくれたのが、突然、頭に飛び込んできた次のような恋愛・結婚に関する説明でした。

(※いつもながら、第三者による検証は受けておりません。)

 

愛し合う喜びの本質

鹿島神宮の奥社

 

質問:誰かを愛するとき、人間が無上の喜びを感じるのはなぜですか。

答え:愛し合うときの人間が体験するのは、一体感です。この一体感は、おおいなる源(神)に戻るときに得られる感覚に近いものです。つまり、誰かと愛し合う束の間、人は神に戻った状態を疑似体験しているからです。

解説:上記を私なりに読み解きますと、愛し合うという経験をするとき、ひとは完全無欠の存在である神から生まれ出る前の至高の感覚を、わずかに取り戻すということなのだと思います。

 

宇宙エネルギーとでもいうような、自然そのものを生み出すパワーのようなものが、宇宙に漂っていると思ってください。

物質が生まれ出るその前の段階として、気が渦巻いたり凝縮したり、という段階があるイメージです。

古代の中国人であれば泰一と呼んだようなもの、日本神話でいえばイザナギとイザナミが天沼矛(あめのぬぼこ)で泥をかき回している場面。

そんな段階を経て、肉体のある人間がこの世に出てくる、としますよね。

すると、肉体を得て此の世に誕生した瞬間、神さまという大自然の気の塊から、物質としての人間という存在に生命は分離するんです。宇宙から地球が生まれ、地球で育まれた自然が命を生む、というように。

こうして生まれ出た命は、死を迎えてエネルギーに戻るまで、根源と分離したような状態になります。

しかし、人と人が愛し合うようになると、肉体があっても多少、魂が同調したりオーラが融合したりして、分離していた命が大きくなる。

すると大いなる自然とつながっていたときのように、命の広がりを経験することができるので、これを幸福感と感じる、ということのようでした。

もちろん生身の人間として生きている間は、本当にひとつの魂に合体するということはできません。

時間が経つとすれ違ったような気持ちになるのは、肉体を持っている以上、仕方のない部分もあるのだと思います。

相性の良い人を探すより、お互いに歩み寄れる人を選んで、心を寄り添わせる努力をする、というのが結局は一番の幸せのコツなのかもしれませんね。

言うは易し、行うは難し、ではありますが。

 

鹿島神宮・要石に宿る陰陽の力

今回、鹿島神宮でこのような経験をした理由は、鹿島神宮という土地の性質に関係があるように思えました。

鹿島神宮は、香取神宮、息栖神社とともに東国三社と呼ばれることがあります。江戸時代にお伊勢参りが大流行した頃、伊勢の後に参拝するべき場所として、関東にあるこの三社が崇敬を受けていた時代があったのだといいます。

その名残が、東国三社を巡る三社参り。中でも鹿島神宮は比較的アクセスの良いこともあってか、常に参拝客の絶えない人気スポットとなっています。

そして、これも私なりの勝手な解釈ではありますが、実際に東国三社を巡ってみて気が付いたことがありました。

他でもいわれる話ではございますが、鹿島神宮と香取神宮は対となる存在ではないか、ということです。

私の感覚では、鹿島神宮はとても男性的な神社。

古代人が喜んだであろう「ますらおぶり」の雰囲気に満ちた、とても頼もしい神様なんですね。大地との結びつきが深いことを創造できるような、地に足の着いたエネルギーに満ちている神様です。

相撲をとる時のように、ふんばる力に満ちていますから、これが伝承に残る地震封じの力のことなのかもしれません。

(その昔、地震とは地中に眠る大鯰が暴れるために起こると信じられていたそうですが、鹿島神宮はその大鯰の頭を抑えている、といわれます。)

私の感覚ですと、こちらと対になるといわれる香取神宮では、空に吹き上げる風のようなエネルギーも感じます。

これらのことを考えますと、鹿島神宮ではエネルギーを圧縮・制御・封印・密集させるようなパワースポットなのかもしれません。陰陽でいえば陰の神社なのではないでしょうか。

実際、鹿島神宮に置かれている要石は、陰を象徴するようなくぼんだ形の霊石ですね。

鹿島神宮の陰の気、香取神宮の陽の気。ふたつが混じり合い、安定した和合のエネルギーが醸し出されるのが、息栖神社なのではないかな、というのが私の印象です。

人間の恋愛も、陰である女性と陽である男性が和合するからこそ、成立するもの。

鹿島神宮の神様は、森羅万象に通じる不思議な原理について、少しだけヒントをくださったのかもしれませんね。

 

 

チャネリングの後記

話はそれますけれど、神さまのひとりごとシリーズを書くときに、私が非常にプレッシャーを感じるのには、もうひとつ理由があるんですよ。

過去の気でも少し書いたのですが、このような言葉が来るとき、私の場合は言語や映像では来ないんです。

光の塊がパッと体に降りてきたような感覚があって、するとそれが脳内で言葉に変換されたり、時にはイラストになって解釈される、という受け取り方をする。

だから、「叡智」という本をもらって、中身を自分で翻訳しているような難しさが付きまといます。
私の理解力、表現力、文章力、どれもが全部試されるのが叡智を伝える、という仕事なのだと思います。

それから、これは私の実体験からの感想なのですが、叡智の光のレベルそのものも、私自身の心身の状態で左右される部分があるようなんですね。

例えるならば、小学生向けから大学院生向けまで、教科書によって難易度が異なるのと似ていますけれど。
説明の趣旨は同じでも、説明で取り扱う項目の難易度が違っているように、叡智にもよりレベルの高い真理を含むものがある、と感じています。

より高いレベルの教科書を理解しようと思ったら、自分自身が賢くならなければなりません。

私がチャネリング系の記事をあげるたびに、真剣に受け止める必要はない、というもうひとつの理由は、ここにあります。

自分の手の届く高さのものまでしか分かりませんから、もっと進んだお勉強をされている方にとっては、私の記事は不要でしょう。

こうしたものは本当は私が通訳する必要はなくて、どなたであっても自分の中の分魂に耳を傾ければ、必要な知恵は自ずと与えられるのではないか、と私は思っています。

皆さまも、神社にお参りに行った後はぜひ、ちょっと散歩するなどして明るい気持ちで過ごしてみて下さいね。
思わぬ閃きがあるかもしれませんよ。

(私の場合、コツはじっとしていないことです。)

 

本日も最後までお付き合いいただいた皆さま、ありがとうございました!

 

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