日本史最大級の不思議・聖徳太子の謎

皆様、こんばんは。

突然ですが本日は、仏教ゆかりの歴史上の人物・聖徳太子のお話をさせていただきたく存じます。

先日、成田山新勝寺の太子堂を訪れたところ、思いのほか聖徳太子という人物の伝説が知られていないことに気が付きました。

教科書の出て来る偉人という一般のイメージに反して、実は非常に不思議な伝説に彩られている人物なんですね。

奈良の法隆寺を訪れた際の経験や、少しスピリチュアルな視点も混ぜつつ、お話して参りますよ。

歴史ミステリーや不思議な話のお好きな皆様、よろしくお付き合いくださいませ。

▼目次

 

(初稿:2017年7月31日、最終更新:2019年10月16日)

 

不思議すぎる!聖徳太子の業績

聖徳太子には、凡人と異なる特別な人物であったことを想わせる、色々な伝説があります。

戦場に出たとき、仏教の四天王に戦勝祈願したところ、それが叶えられたため四天王寺を建立した。長雨のときに笛を吹いたら雨が止んだ、などの伝説です。

伝説だけではなく、政治家としての業績も極めて変わっていて、結局は推古天皇に皇位を任せてしまいました。

仏教の受け入れの他にも、海外の先進的な知識に波ならぬ関心があったのか、大陸から色々な分野の専門家を招いて、当時なりに日本の先進国化に努めたといわれます。

仏教の他にも、陰陽道、医学、兵法などを自身でも勉強しておられたそうで、例えば日本で最初に忍者を使ったのも聖徳太子なのだそうです。

 

聖徳太子には超能力があった?

聖徳太子の謎といえば、一番よく知られているのは、その予知能力かもしれません。

オカルト的な話題が好きな方の間では、太子は予知能力を使って、未来記という予言書をしたためたと信じられて来たようです。

未来記は解釈の仕方により、驚くほど日本の歴史と重なることから、予言書の中でも高い的中率を誇るとして、いまだに一部の人の間では人気を誇っています。

一方、学術的には裏付けがないのも事実で、通説では江戸時代頃に造られた偽書とされているそうです。

日本人が未来記を本物だと思ったのは、あまりにも不思議な太子の伝説のためでしょう。

いわく、聖徳太子は法隆寺の夢殿で瞑想をしているとき、時間を飛び越えて日本の未来を垣間見たといいます。

未来記に書かれているのは、いずれも太子が瞑想中に見た未来であった、といわれていました。

中でも注目されたのが、日本国の滅亡ともとれる一説で、クハンダという鬼が現れて東の都(東京のこと?)が散り散りになる、と予言したといいます。

書物は偽書であったとしても、予言を真に受ける人がいたことは事実。

これは私たち日本人が、それだけ聖徳太子という人物を、ふつうではない特別な人と見なして来たことの証なのかもしれません。

 

法隆寺が語る聖徳太子の秘密

私自身の聖徳太子の思い出は、以前に訪れた奈良の法隆寺から始まります。

聖徳太子の屋敷だったともいわれる、法隆寺。ここを訪れて初めて、昔の日本人にとっての宗教とは何であったのかが、おぼろげに分かった気がしました。

海外ですと、特にキリスト教の国などでは、魂の救済を目的として神様を信仰します。

でも、日本人はそうではない。根本的に「神様=願いを叶えてくれる存在」と考えている部分がありますよね。

その起源を辿ると、聖徳太子の時代にまで遡れるのではないか、と個人的には思いました。

ちょっとスピリチュアルな話になりますが、法隆寺にはまだ、聖徳太子の時代の空気が染みついて残っているんですね。

現地に行くと、私でも多少、当時の感覚が伝わってくる感じがありました。

法隆寺に残っている人間の意識を辿ると、飛鳥時代頃の日本人にとっては、宗教も戦争の道具だったのかもしれない、と思うんです。

人間の兵力以上に、神仏に加勢してもらうからこそ、戦に勝てると考えていたのではないか、と感じました。

きっと、現代的な神仏との付き合い方も、こうした発想の延長線上にあるんじゃないか、と私は思うんです。

 

日本の神様観は飛鳥時代にあり?

海外の宗教を知っている人は、日本人の神仏との付き合い方を、「現世利益を求める傾向が強い」と感じることもあるようです。

でも、昔の日本人(特に貴族や豪族)は、神をまつり、祈ることで、自分たちの氏族への加護をお願いするのが当然のことでした。

日本人が現世利益に敏感だとしても、歴史を考えれば仕方ないのかもしれません。古代人にとっては、人間や国家の命運を決めるのも、神様だったのでしょう。

法隆寺の空気にはどこか、生き残るべし、そのために最新鋭のあらゆる技術を投与すべし、という気持ちが含まれているように思うのです。

実際、聖徳太子が四天王寺を建立したのは、物部氏という神祇官と軍人のリーダーを兼ねる一族に対して、戦で勝利したことがきっかけでした。

つまり、物部氏は当時、最も強い部類の神様に支援されている、だから手ごわい、と聖徳太子の陣営は考えていたのではないか、と私は思うんですね。

神様さえも敵側と味方に分けて考えた時、大陸から来たもっと強い存在、つまり仏の加護を願おう、そんな決断があったのではないでしょうか。

物部氏との戦に勝利したことで、仏こそが唯一無二の力ある守護者だ、と太子は納得したのかもしれません。

物部氏の守護神だった、石上神宮。

 

法隆寺が語る聖徳太子の人物像

こう考えると、聖徳太子が仏教を擁護した理由というのは、本当はすごく政治的かつ現実的な面があった気がします。

法隆寺に残る空気から見る限り、聖徳太子は宗教家、政治家である以上に、学者のような印象が強い。

きっと太子は当時でも第一級の頭脳を持つ方で、仏教や陰陽道には、日本の神様と違う個性があると見抜いたのではないか、と思います。その個性がつまり、願望成就のためのノウハウだったのでしょう。

祀って鎮めても、なお荒ぶる神様の扱いは難しい。でも、大陸の仏は人間の意を汲んでくれる、有りがたい存在なのだから、是非とも守護を願うべきだ――。

そんな気持ちで、政治不安の大きい時代に、起死回生を狙う手段として仏教に関心を寄せたとも考えられそうです。もちろん、仏の教えを篤く信仰したうえでのことであろう、と思いますけれど。

太子本人は物静かなタイプで、自分の好きな学問を研鑽したり、瞑想に耽ったりする方が性に合っていたから、天皇になりたくなかったのかなあ、と思わせる何かが法隆寺にはありました。

きっと、学者や宗教家に向いているようなお人柄で、他人を率いて仕事をこなすような親分肌ではなかったのかもしれません。

 

現代に残る聖徳太子の呪術

聖徳太子といえば、私にひとつ忘れられない思い出があります。スピリチュアルな話になるので、大丈夫な方だけご覧ください。

以前、国宝をテーマとした博物館の展示会を見学に行ったときのことでした。

会場に集められた色々な展示品のうち、ガラスケースに収められた古い生地の前まで来たとき、思わず足を止めました。

なぜなら、古びて色も模様もよく分からなくなった布地の表面に、呪術の痕跡を発見したからです。

呪術といっても、きっと何かの結界の類だったのではないかと思うのですが、青白い稲妻のようなものが、網のように、古布の表面に瞬いていたのです。

これは展示して良いのかな、などと思いつつ説明を見ると、法隆寺の救世観音を包んであった布とのこと。

法隆寺の救世観音は、聖徳太子本人をモデルに、等身大の姿を写し取った御像といわれているそうです。

日本の危機が訪れた時に開帳して、救済の祈りを捧げようという意図から、聖徳太子その人が後世に残したために、救世観音と呼ばれるようになったらしい。

もともとは、このおくるみと御厨子とで堅く封じ、来るべき時までは秘仏とするべし、とされていたといいます。

にも関わらず、近代になってからは信仰の対象よりも文化財と見なされ、遂に明治維新の頃にご開帳されるようになったとか。

布だけを見る限り、おくるみに結界が仕掛けられていたのは間違いなさそうでした。果たして、開けて良いものだったのか、否か。

今更言っても仕方のないことですけれど、聖徳太子が日本を救うため、仏教的な呪術を用いていたことは、おそらく事実なのでしょう。

聖徳太子は本当に、常人とは異なる不思議な力を持っていたのかも、と私自身は実感した経験だったのですが、いかがでしょうか。

 

聖徳太子の不思議を知りたい方へ

最後に、もっと歴史ミステリーを知りたい方のため、聖徳太子にまつわる不思議な噂について取り扱った書籍を紹介いたします。

ただし、未来記や未然紀と呼ばれる預言書については、歴史的には偽物とされていますから、オカルト的な楽しみとして受け止めていただければ幸いです。

なお、聖徳太子の伝説は、雑誌ムーでも特集されたことがあります。この手の話題が好きな方には、お楽しみいただけるかもしれません。

 

以上、ミステリアスな歴史が好き!とのお声をにもとづき、過去の記事から大幅に加筆修正しまして、聖徳太子のあれこれをお話させていただきました。

 

本日も最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました!

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