成田山新勝寺と千葉県の寺社の深い話
皆様、こんばんは。
本日は成田山新勝寺の歴史についてお話させていただきます。次のツアー企画の準備のため、成田山新勝寺に関する調査を行っており、ブログでも紹介させていただきますよ。
成田山新勝寺を参拝予定の皆様の参考となれば嬉しく、よろしくお付き合いくださいませ。
▼目次
(初稿:2019年6月15日)
成田山新勝寺とは?
成田山新勝寺は、真言宗智山派という宗派の大本山です。
ご本尊は、平安時代に京都から渡ってきた、不動明王さま。こちらの不動明王は、もともと京都の神護寺に奉安されていた尊像で、伝説では弘法大師空海が自らの手で彫刻し、開眼供養も行ったとされています。
わざわざ成田の地へ運ばれた理由は、当時、朝廷を悩ませていた平将門の反乱を鎮めるためでした。
平将門調伏のご祈祷を行うため、不動明王と一緒に派遣されて来た寛朝僧正というお坊さまは、安倍晴明の友人としても知られていますね。
成田の地が選ばれた理由はいくつかあるようです。ひとつは、将門の叔父(敵対中で朝廷に味方していた)が納める土地であったこと。大型船での行き来ができる良好な海岸と、そこから内陸へ入れる川があったこと。更に、安全に敵陣に近寄れるぎりぎりの場所だったこと。
以上のような理由から、寛朝僧正は成田を拠点にして、将門調伏のご祈祷をしたといわれていますよ。
将門調伏のご祈祷は、他にもいろいろなところで行われていたそうですが、ご祈祷上手で知られていた寛朝僧正のご祈祷は、特に成果のあった例として後世にまで語り継がれることとなりました。
成田山新勝寺の今昔
私が寺社ツアーをしてみて驚いたことのひとつに、成田山新勝寺を崇敬する参加者さまが多かったことが挙げられます。
成田山新勝寺が現在のような人気を得たのは、江戸時代に歌舞伎役者の市川團十郎が信仰を寄せたことの影響が大きいようですね。
市川團十郎ファンの集う江戸には別院という出張所まで置かれるようになり、これが今の深川不動尊などとして残っていますから、自然に名前が知られるようになったのでしょう。
現在、成田山に連なる別院、分院などを合わせると全国に71か所もの寺院があるそうですよ。千葉の本山までは遠くとも、お近くでお参りできるお寺を探してみるのも良いかもしれませんね。
【参考】成田山新勝寺公式ホームページ
現在の成田山新勝寺については、初詣の参拝者数が多いことで知られ、全国でも3本の指に入るといわれておりますね。
年間1000万人の参詣者を集める大寺院ですから、折に触れて新しいお堂などが建立されるなど、その勢いは衰える気配がありません。
こちらは、2019年の正月に初詣に行ったときに撮影した医王殿。
2017年が開基1080年の年だったそうで、大きな法要が営まれるとともに、この医王殿も新設されました。医王の名前のとおり、薬師如来様さまが奉安されています。
場所は大本堂から奥の院側、平和の大塔に至る手前にございましたので、久しぶりにお参りする方はお見逃しなきよう。
成田山の歴史が語る関東の古代
余談ですが、成田をはじめ千葉県の歴史は意外に古いのです。
成田山の近隣では、芝山仁王尊なども地元民の崇敬を集めておりますが、芝山仁王尊の創建も781年と平安京の誕生よりも早い時期で、近くにはそれ以前に造られたという古墳、貝塚もございます。
寛朝僧正の上陸のときには、既に大阪や京都から移住して来た人たちの集落が完成していて、朝廷と連携して将門調伏のご祈祷の手引きをしたのですね。
千葉県といえば、神社好きの方は東国三社・香取神宮を思い浮かべるのではないでしょうか。実際のところ、香取神宮を守ってきたような神社の使いとなる人々は、房総半島のあちこちに住んでいたらしく、この地域は朝廷とのつながりが非常に深いのです。
成田山新勝寺のお不動様が運び込まれた川沿いの地域や、香取市の辺りには同じ苗字が広がっているので、神人たちの子孫が広がっているのでは?と私は勝手に思っています。
観光として訪れる場合は考古学に焦点を合わせ、殿塚・姫塚などの古墳群、芝山はにわ博物館などを一緒に巡るのも面白いのではないでしょうか。
成田山新勝寺の不思議な話
ここから少しスピリチュアルな話をしますので、お好きな方のみお付き合いくださいませ。
千葉が地元の私にとっても、ハイハイの頃から初詣といえば成田山でしたから、お正月にここに来ないと年が明けた気がしません。
今年の初詣に出かけた際、印象的だったのは成田山の空に集まる龍たちの姿でした。
群れを成し飛び回る龍たちは、ご祈祷のために集まって来たのでしょうか、本堂前の広場を埋める参詣者を、空から見下ろしているのが感じられました。
お不動様の手に握られている剣は、倶利伽羅龍王という龍神様の化身といわれますように、成田山新勝寺もまた龍と縁の深い霊場であると思われます。
成田山は祈りのパワースポット
成田山新勝寺を訪れた人の中には、土地の性質がお寺よりも神社に近いという感想を抱く方もおられる様子。
実際、総門、釈迦堂などの前に狛犬が置かれているなど、神道のスタイルを交えながら信仰されてきたことが分かりますね。
初期の成田山新勝寺の管理は、早くから地域に定住していた神人(しんじん。神社を運営しながら朝廷の連絡係をしていた人たちのこと。)に任されていたとの話もあり、始まりの頃はさほど神仏の区別をしていなかったのかもしれません。
成田山といえば日に数回行われる御護摩も有名ですけれども、お清め以上に願いを叶える力に優れたパワースポットといるのではないでしょうか。
スピリチュアルな話のついでに申せば、成田山を信仰している方の間では、お守りに関する不思議な話もある様子。
数あるお守りの中でも特に身代御守については、事故にあった時、自分は無事だったがなぜかお守りが割れていた、などといった不思議な体験も耳にします。
お土産を探している方は、一度こちらのお守りもチェックしてみてはいかがでしょうか。
歴史を伝承するのは難しい
さて今回、成田山新勝寺の案内企画をやってみようかと思ったのには、それなりの理由があるのです。
私が実家から聞いているとおりなら、成田山新勝寺を現在のような寺院に整えたのは、この地域にあった寺台城というお城の城主だったといいます。これはお寺さんのホームページにも載っていた話なので、事実と認められているのでしょう。
その一方で、この時の城主が誰であったのか明確な記録が残っておらず、学術的には確認できていないのですけれども、地元民の間では寺台城主と成田山新勝寺にまつわる様々な口伝が残されておりますので、ツアーではこれにも触れたいと思っています。
こうした口伝は私にとって、子供の頃から聞いて来た昔話に過ぎませんが、成田山新勝寺と房総半島に残る寺社の歴史を知りたい方には、お楽しみいただける内容かもしれません。
伝・うちの父と祖父の内容なので、おとぎ話を聞くつもりで受け止めていただければと思います。皆様にお話をするにあたり学術的な定説も確認したところ、私が知っていることと違う部分もありました。
以前、某有名スポーツ選手が○○家の子孫と名乗った後、事実ではなかったと発覚したというニュースが流れましたが、ご本人の実家では本当にそのように伝えられていたそうで、ご本人は聞いたとおりに語っただけだったといいます。
日本の場合こういう事例が本当に多いのでしょう。成田山新勝寺の伝説についても、同じような状況があることを確認いたしましたので、私としては慎重になっております。
衆目に曝されるブログでは明言を避けますが、地元民の伝承を知る希少な経験を、皆様にお届けできればなあと企画を練っておりますよ。
成田山と不動明様について
最後に、成田山新勝寺と不動明王さまについて、より深く知りたい方のために参考書籍を紹介させていただきます。
こちらは初心者にも分かり易い、天台宗系の僧侶様の著作。インド神話からの歴史もふまえた解説、ご真言など入門書にもなる内容です。
本格的な学術書でも大丈夫という方には、成田山仏教研究所の先生による下記のような書籍もございます。新品は高騰していますが、古本で構わなければ、単行本は数百円、文庫版は数千円で購入可能です。
それでは本日も最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました!