神様に聞いた悟りの極意

皆さま、こんばんは。

今日の記事は、「神さまにきいた悟りの極意」ということで、いつもの怪しいブログに戻りますよ。

悟りを開くということについて、一般的に誤解があるのではないか、という話です。

これは別に神社できいた話ではなく、明け方や早朝に届くチャネリングのようなメッセージのひとつなので、興味を持ってくださったあなただけ、読み流していただければと思います。

 

 

神のさとり・仏のさとり

神さまの悟りと、仏教の悟りは、少し意味が違います。

仏教は自分が仏様になる即身成仏の考え方があるので、お坊さんたちは修行をしますよね。

 

でも、神さま(神道または原始シャーマニズム?)は、修行をしろとは言いません。

大和の国は「和」する国なので、個人が特別な境地に達することよりも、全員が争わずに生きていけることの方が、貴いと考えます。

 

これはどういうことかというと、「あるがまま、なすがまま」に生きて、かつ周囲と摩擦を生まない、ということです。

殺し合いをせずに、生かしあいなさい、そして繁栄を叶えなさい、というのが神さま的な悟りです。

 

決して、泣きも怒りもしない、聖人君子になれということではありません。

一般的なイメージだと、悟りを開いた人というのは、腹を立てたりせず、万物に愛をもって接し、死を恐れず、完全なる心の静寂を実現した人…だいたいこんな感じだと思います。

 

 

怒りのエネルギーは祓い清めのチカラ

しかしながら、こうしたイメージはインドの聖人や中国の君子の教えがもたらされてから生まれた概念で、古代日本の神さまが良しとした、「清き明けきこころ」という本質とは違うもの。

怒り、妬み、嫉み、恨みは悟りの対極にあるものと見なされがちです。

もしも宗教団体の中で、教祖的な存在になっている人間に聞けば、必ずこれを捨てなさい、ということでしょう。

 

でも、それ、本当に捨てていいものか、もう一度考えてみて欲しいのです。

こうした感情はネガティブなものと見なされ、恥ずべきもののように言われがちです。

ですが、手に余る感情というのは、実際は鞍の付いていない馬のようなもので、神さま的にいうと、そのエネルギー自体には善も悪もないのだそうです。

 

 

大陸伝来の仏教は、インドや中国の思想を受け継いでいます。

 

<人は神の子>

神の子であるひとは、怒りのエネルギーの扱い方を覚えなければならないのだと思います。

怒りや悲しみも、人間に与えられたものである以上、消し去ることはできないし、そんなことを神は期待していないのでしょう。

 

神社に行くと、和魂(ご機嫌な神さま)と荒魂(ご機嫌ななめな神さま)にお社を分けて、祀ってありますよね。

つまり、神さまであっても怒るのです。

 

なぜなら、不正を祓い、清め、浄化するために圧縮されたエネルギーの爆発が、怒りのパワーだから。

ということは、親神さまが本当の本気で怒ったら、ビッグバンが起きて宇宙の発生からやり直しになるのか?

などと妄想したくなる、今回のメッセージでした。

 

 

本日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

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