秀吉の出世の秘密はお稲荷さん?京都・豊国神社

皆さま、こんにちは。

今回は豊国神社について、参拝報告をしたいと思います。

豊臣秀吉を神様にしている、京都の豊国神社ですね。

こちらには養源院という徳川将軍家が代々、菩提寺にしていた場所と近かったため、ついでに足を運んだ神社でしたが、思いのほか興味深い場所だったので、記事に取り上げることに致しました。

よろしくお付き合いくださいませ。

伏見城の遺構を使用した唐問は国宝指定

 

▼目次




京都・豊国神社の歴史と見どころ

豊臣秀吉の死後、東山の阿弥陀が峯の霊廟のもとに創建された神社がもともとの姿。

豊臣家が滅亡してから一時期は荒廃していたものを現在の場所に遷して、伏見城の遺構などを用いながら明治時代に再興されたといいます。

このため、現在も秀吉の霊廟(お墓)は東山地域の山中に位置していますが、豊国神社については京都国立博物館近くの今の場所に離れて営まれるようになりました。

よって、ご祭神は豊臣秀吉その人です。

京都・豊国神社の見どころとしてお勧めしたいのは、宝物館(時間9~16時半を目安、大人300円)。

秀吉ゆかりの神社とあって、宝物館には豊太閣の遺品や、重要文化財である「豊国臨時祭礼図屏風」(紅野内膳筆、秀吉の7回忌に盛大に行われた祭礼を描いた桃山絵画の傑作)などを観賞することができます。

三十三間堂、養源院、方広寺、など歴史ある寺院に隣接しているので、一緒に見て回るのがお勧め。

アクセスは市バスの博物館・三十三間堂前バス停が最寄です。

 


京都・豊国神社のちょっとスピリチュアルな話

豊国神社に入った時の第一印象で、おっ、と思ったのはいつもながら土地の気でした。

(毎回おなじ切り口ですみません。)

武家に関係する寺社のほとんどは、戦勝を目指しているため、よく言えば厳しい、悪く言えばとげとげしい性質を持っています。

しかし、豊国神社はそういう感じがしません。

どちらかとうと、天とつながる上昇気流のような力が強かったので、戦いに駆り立てるような要素がないことが、私としては意外でした。

ただ、正直に言えばこの気は、この神社だけによって生じている訳ではない様子でしたので、きっと豊国神社ができる以前に、何か別のものがあったんだろうな、とアタリを付けました。

それから、本殿を見上げると、屋根の上に巨大な金色の何かが乗っているんです。

何か分からないけど、もし物理的な何かだったら、屋根がつぶれそうなサイズでした。

残念ながら、豊国神社を参拝した時点では、あまり秀吉のことも当時の歴史のことも分からなかったので、なんだろう?で済んでしまったのですが、後日に調査してみたところ、ここに大仏が建っていたらしいですね。

方広寺という、今は神社の隣にあるお寺が、昔はこの一帯を所有していたそうで、その大仏殿があったのが現在の豊国神社の地なんだそうです。

その頃の方広寺の大仏様は、奈良の大仏様よりも大きくて、庶民の間にまで信仰が広まっていたそうです。

大仏様の残像でも見えたかなあ、というできごとでした。

パワースポットとして豊国神社を考察すると、三十三間堂、国立博物館のあたり一帯のエネルギーの核がここにある、というのが私の印象でした。

このエリアは土地のパワーが強いので、現在でも観光客を呼ぶ人気スポットとなっていますが、この地のエネルギーの中心地は、この豊国神社の敷地内にあると思います。

盛り上げる、上昇する、という秀吉の人生にぴったりなエネルギーを感じるので、出世したいサラリーマンの方などに合いそうな神社でした。

 


豊臣秀吉という人物

おそらく、存命中の秀吉公、かなりよく喋る人だったのではないでしょうか。

なぜかというと、珍しく私でも、秀吉の残像のようなものを、豊国神社で感じることができたからです。

私のアンテナはどんぶり勘定なので、普段なら霊とか微弱なものはひっかからないんですよ。

だから、このブログで扱う内容は神様であったり、昔の人が施しておいたらしい呪術の痕跡であったり、土地の気であったり、存在の主張が強いものが中心です。

ところが今回の秀吉公は、もと人間であったにも関わらず、私でもわずかながら感じたものがありました。

とはいえ、本来の秀吉のお墓は別のところにあるので、私がこちらで感じたものの精度は定かではありません。

その点、ご了承いただいたうえで、以下は話半分に受け止めていただければと思います。

豊国神社で感じた秀吉の人柄なんですが、とにかくすごく豪快。

ガハハハハ、とずっと大きく高笑いしているような感じで、しかも話の合間にいちいち大爆笑するようなタイプ。

「殿」など分かりやすい敬称で呼ばれると、嬉しくて仕方がないような人だったのではないでしょうか。

それから、女性に対して大変に甘い人だったと思います。

「女子は許す!」の一言で片づけて、そこそこ若い女性なら何をしても気にしないような、いい加減さというか豪胆さというか、ある種のこだわらなさを感じました。

信長や家康と比べて、秀吉に人気があった理由は、彼のもともとの身分が低かったことに限らず、派手好きであったことにもありそうです。

贅沢をするということは、それだけ多く散財することになりますから、秀吉の派手好きのお陰で、懐の潤った商人がたくさんいたのでしょう。

また、寺院への寄進なども積極的に行い、豪勢な建築を京の街中に増やしたことが、結果的に庶民の楽しみも増やしたのだと思います。

もしかしたら、秀吉の派手好きは一種の見栄だったのかもしれませんが、そのことで恩恵を受けた人たちが、秀吉を支持するようになったのかもしれません。

そして今でも謎とされる朝鮮出兵の理由ですが、もっと偉業を成さなければならない、という強迫観念に追われてした決断だったのではないか、と思います。

低い身分から出世につぐ出世をとげた秀吉にとって、人生は成功と勝利の連続した物語でした。

自分が天下を取れた理由は、自分が積み上げて来たものを世間と武家社会が認めてくれたからだ、と自己分析をしていたのではないでしょうか。

だからこそ、何もせずに座っているということができなかった。

次の功績を挙げなければ自分の名前は歴史から消えてしまうのではないか、誰かが謀反を起こすのではないか、と天下をとった後まで心配し続けていたようです。

その不安を払拭するために、過去に誰も成し遂げなかった偉業を果たそうとして、異国への出陣を決めたように感じました。

現在の方広寺さんに残る鐘。刻まれた文字が、豊臣宗家の滅亡するきっかけに

 


豊臣秀吉のお稲荷さん信仰

秀吉は若い頃、あるお稲荷さんに熱心に参拝していたとい言います。

秀吉にあやかって、出世稲荷と呼ばれるようになった稲荷神社のことですね。

現在、この出世稲荷神社そのものは大原に移転してしまっているのですが、豊国神社の境内にも、お稲荷さんのお社がありました。

なぜ、これを取り上げるかというと、例によってこちらの方が、願掛けに向いているスポットかな、と私は感じたからです。

なんというか、人間の頼みごとを請け負うのに慣れている神社と、そうでない神社ってあるんですよ。

豊国神社の場合、本殿もよい場所でしたが、脇のお稲荷さんの方が、より人間の話を聞くことになじんでいる印象を受けました。

こちらも何故か、神社の案内やご由緒書きには掲載されていないお社です。

豊国神社のtwitterの公式アカウントには、このお稲荷さんの話が出てくるので、こちらで祀られている神様であることには、間違いないと思われます。

稲荷神が好き!という方も、豊国神社とは相性が良さそうですね。

 


お稲荷さんへは御礼をしよう

お稲荷さんはお付き合いが難しい神様だ、といわれることがあります。

その理由を私なりに考えますと、お稲荷さんのご眷属は勤勉なので、人間の気まぐれな願掛けに対しても、積極的に働こうとして下さるからなのかな、と思います。

願いのとおりに働いてもらったら、人間の側としても礼節で応えてあげるのがマナーではないでしょうか。

以前、お稲荷さんと上手にお付き合いしているらしい、某作家の先生がインタビューでお話しされていました。

その話によれば、稲荷神社に対しては先にお供え物をするなど、自分がお狐さんに返せるものの線引きを明確にしている、とのこと。

願い事はなに?と積極的に来てくれるご眷属に対して、自分の用意できる対価に見合ったお力添えをお願いするコツのようです。

漠然と「幸せになりたい」または「お金持ちになれますように」と祈願するよりは、「転職して年収を100万円アップさせたい」など願い事を具体的に決め、それに対して自分がお返しできるものを、先に差し上げると良いかもしれません。

あるいはお酒などを奉納しての正式参拝や、絵馬などを介して神社の方の手にゆだねる方が、上手に願い事が届くかもしれませんね。

 

以上、私の豊国神社の参拝報告でした。

本日もお付き合いいただいた皆さま、ありがとうございました!



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